前回の記事はいかがでしたでしょうか?少しでもお役に立てていたら嬉しいです。今回は、前回に引き続き翻訳の際の学名の取り扱いについてです。前回は外国語文中のアルファベット書きの学名を日本語に直す際のお話でしたが、今回は逆に日本語文中の和名をアルファベットの学名に直すときのお話をしていきたいと思います。それでは始めましょう!
学名は1生物1つじゃないのか
日本語文内の和名に対応する外国語の生物名を調べても見つからず、ならば学名だ、と調べたら同一の生物の和名に対し異なる学名を使っている文献が、しかも、それぞれの学名に対し信頼度の高いところから複数件、なんて経験はないでしょうか?学名って1つの生物に1つって聞いたのにどうなっているんだ?どっちを使えばいいの?と悩んだこと、ありませんか?
本来、1つの生物が持つ学名は1つです[注釈1]。が、以下のように1つの生物に2つ以上の学名が紐付けられてしまうケースがあります。この紐付けられた学名のうち、今現在有効とみなされていないものをシノニムと呼ぶことが多いです(正しくはジュニアシノニムですが、大体は「シノニム」で通ってしまいます)。「有効ではないので、信念のあるその道のプロでない場合は特段の理由がない限り使わない方が無難だが、使われてもなんの生物か理解はしてもらえる名前」くらいの位置づけになるかと個人的には思っています。では、どのようなことが起きるとシノニムが発生してしまうのでしょうか。いくつかのケースを見ていきましょう。
シノニムが発生してしまうケース
・外見の異なる同一種の個体(例えば、小型個体と大型個体、幼体と成体、雄と雌等)を別の生物と認識して学名を付けたが、後々同一の生物と判明したとき(例:Gymnothorax pescadoris(ゴイシウツボ)とGymnothorax isingteena/Gymnothorax melanospilus(ニセゴイシウツボ))
ニセゴイシウツボ。かわいい。@ドン・キホーテ新宿東南口店
小型個体を「ゴイシウツボ」、大型個体を「ニセゴイシウツボ」というそれぞれ別種の生物と認識し、学名を付けるところまでいきました。その後、同一種であると分かりましたが、こちらは先取権により一番先に付けられた学名である「Gymnothorax isingteena」が優先されました。そしてその際学名に対応する和名が採用されたため、「『ニセ』ゴイシウツボ」が残ったそうです[注釈2]。
・発見された部位ごとに別の生物と認識され、それぞれに学名が付けられたが、後々同一の生物と判明したとき(例:Peytoia nathorsti)
この例は、体がまるごとではなくパーツで見つかることが多い、現生の生物から全体像の想像が付きづらい、等の理由から古生物で起こりやすいケースかと思われます。有名な古生物といえばバージェス頁岩のアノマロカリスですが、このうちのAnomalocaris canadensisは別の生物と思われたり、自身のものと思われていたりしたさまざまなパーツを取捨選択して今の形に落ち着いたという面白い伝説の持ち主です。この過程でAnomalocaris canadensisから離れたとされる生物にPeytoia nathorstiがいますが、こちらもまたさまざまな生物のパーツが出入りし、学名もあちらこちらとふらついた生物でした。そして、結果としてPeytoia nathorstiになると同時にシノニムを獲得してしまいました。その変遷を大まかにたどると、
- 「Peytoia nathorsti」発見。クラゲの仲間とされました[注釈3]。
- 「Laggania cambria」発見。クロナマコの仲間とされました[注釈3]。
- Sydneyiaとされる前足発見[注釈4]。
- 1.と2.がくっついている標本発見。しかし、相変わらず2つは別の生物と考えられ、紆余曲折の末「Peytoia nathorsti」はクラゲの仲間、「Laggania cambria」はすでに見つかっていたCorralio undulata(現Capsospongia undulata)というカイメンの仲間とされました[注釈5]。
- Sydneyiaの前足は別の巨大節足動物のものとされました[注釈6]。
- 1.と2.が同一の生物のものと分かりました。1.は口器、2.は胴体と判明しました。アノマロカリスの仲間と考えられたため、この時の学名は「Anomalocaris nathorsti」でした[注釈7]。
- アノマロカリスの全身化石発掘。体形としっぽの形が違うため、1.と2.がアノマロカリスから外れました。口器はアノマロカリスと同形と考えられたため、胴体の名称「Laggania cambria」が学名となりました[注釈8]。
- 7.のアノマロカリスの口器の形が三放射型であり、ペユトイアの十字型とは異なることが分かりました[注釈9]。この時、同じ文献内で「Laggania cambria」が「Peytoia nathorsti」となりました。
- 3. 、5.の前足たちはさらに別の生物のものと混同されたりしていましたが[注釈10]、Peytoia nathorstiのものと考えられるようになりました。
と、盛りだくさんです。「Peytoia nathorsti」はこの過程で少なくとも「Laggania cambria」というシノニムを獲得しています。
以上は化石特有の現象のようにも考えられますが、例えば、深海の生物が死後分解され、比重や潮の流れの関係で部位Aはa地方に、部位Bはaから遠く離れたb地方に集中的に流れていく場合などを考えると、現在でも起きるときは起きる、と考えた方がよさそうです。
・遺伝子解析などで分類が変わるとき
例えば、Lactobacillusでは以下のように分類が変化しています[注釈11]。
[注釈11] https://bifidus-fund.jp/keyword/kw054.shtmlより一部抜粋。
なぜこんなことになってしまうのでしょうか?
まず、細菌を分類・同定するための方法として、現在、以下の5つ
- 形態観察
- 表現形質(生理・生化学性状)
- 化学分類指標(細胞壁組成、キノン分子種など)
- 蛋白分析(全菌体蛋白組成など)
- DNA分析(G+C mol%、DNA相同試験、塩基配列比較など)
がありますが[注釈12]、いろいろな細菌が発見され、分類が考えられ始めた当初は3、4、5に相当する技術はありませんでした。このため、「見た目が似ている」「感染した時の症状が似ている」「生息場所の好みが似ている」などで「こいつら近縁じゃね?」と分類し、学名を付けていたのですが、ここにきて「持っている遺伝子が似ている」とか「細胞壁の成分が似ている」とか「出している毒素のタンパク質の配列が似ている」などという、昔では考えられなかった全く新しい方法が分類の世界にもたらされました。
この結果、「昨日までこの属と思われていたこの細菌は今日から別の属になりました」とか「この属とこの属は統合されました」とか「この属のうちのここらへんの一群は独立して新しい属になりました」など今まで考えられなかったような変化が次々と起こりました。そしてこの変化は今でも続いています。ちなみに、こういった見直しは哺乳類でも行われており、その結果「クジラはウシに近い」ことが判明しています[注釈13](これは分類でも「属」や「種小名」より上流の「目」での話のため(鯨偶蹄目)、これに付随した学名の変化はありませんが)。それはさておき、変化が今でも続いている、ということはつまり、今現在分類が正しいか否か決着していない場合も多いということです。要するに、分類が変わり学名も新しくなりました、と公表されたときにその分類を正しいと思う方々がいる一方でその分類を正しいとは思わない方々もいるということです。そうなると、シノニムとなった学名も、こちらこそ正しい学名であると判断されて使用され続けたりもするわけです。現在存在する手法による分類の見直しや新たな分類手法の開発が続く限り、こういったシノニムが増え続ける可能性は高いと考えられます。
今まで挙げたものだけでも、生物とそこに紐付けられた学名に関し混乱を来すには充分ですが、マンボウ属のシノニムなんてもっとすごいですよ。なんせ30個ですからね[注釈14]。
マンボウ属の2003年の状況の一部:eschmeyer’s fish catalogue[注釈15]で「molidae」で検索するとANNOTATED CHECKLISTS OF FISHES[注釈16]が入手でき、マンボウのシノニムを確認できます。
ANNOTATED CHECKLISTS OF FISHES[注釈16]の一部。赤線を引いた部分のように「=Mola mola」とされているのが結局マンボウだった生物です。「=」の左側がシノニムです。
ちなみに、マンボウのシノニムがこんなにも多いのは、昔盛大に「別種かと思ったら同一種だった」をやってしまったためです[注釈17]。
和名を学名に直すには
さて、1つの生物に対して有効な学名は1つと決められていても、1つの生物に紐付けられている学名は1つではない場合があることがお分かりいただけたかと思います。ここで、冒頭の困った状況「同一の生物の和名に対し異なる学名を振っている文献が、しかも、それぞれの学名に対し信頼度の高いところから複数件」に戻ります。この状況で「有効な」学名を選ぶにはどうしたらいいでしょうか。
「日本産魚類全種の現在の標準和名[注釈18]に対し有効な学名を選ぶ」「北海道から沖縄・小笠原までの日本に自生、帰化している全ての維管束植物と主な栽培植物について[注釈19]標準和名に対し有効な学名を選ぶ」「日本産の全昆虫[注釈20]の標準和名に対し有効な学名を選ぶ」「病原としてメジャーな細菌・ウイルス・寄生虫・それらの媒介生物の標準的な日本語名に対し有効な学名を選ぶ」というシチュエーションにおいてはそれぞれ有効な解決策が存在します。ただし、菌類や寄生虫の場合、哺乳類や魚類と異なり、学名と日本語の名称の間にそこまで厳密な対応関係はありません。1対1の対応関係ではない場合もあり、このため、科学的正確さにはどうしても欠けてしまう場合があります[注釈21]。ちなみに、学名と1対1の関係にある和名を標準和名[注釈22]といいますが、これはカタカナで表記されます[注釈23]。イヌとかネコとかウシとか、生物学的な文章ではなんで漢字で書かないんだろう、と疑問に思われている方もいるのではないかと思いますが、これはこの辺りに起因しています。本当に、ナミベリハスノハカシパンとかヨウシュヤマゴボウなどは「波縁蓮葉菓子パン」とか「洋種山ごぼう」と書いてくれた方が「縁が波打っていて蓮の葉のような菓子パンなのだな」とか「山ごぼうの洋モノなのだな」とか分かりやすいのですが、ルールですので仕方ありません。ちなみにナミベリハスノハカシパンはここまでで散々扱ってきたシノニムに該当し、現在はウスハスノハカシパン(Scaphechinus tenuis)[注釈24]に吸収されています。
カシパン。菓子パンに形が似ているからこの名前になったといわれています。
閑話休題。細菌や寄生虫の日本語の名前がいわゆる標準和名ではないというのはダイチョウキンとかニホンジュウケツキュウチュウといった表記がまず見られないことからも窺えるかと思います。
魚類の和名と対応する学名は、
本村浩之.2023.日本産魚類全種目録.これまでに記録された日本産魚類全種の現在の標準和名と学名.
[注釈18] https://www.museum.kagoshima-u.ac.jp/staff/motomura/jaf.html
「日本産魚類全種目録 エクセル版」の最新版を使用するとよいかと思います。
植物の和名と対応する学名は、
[注釈19] http://ylist.info/
(MS Excel形式)の方が見やすいかと思います。
以上のリストは更新されることがあるため、使用の際にダウンロードしたリストは使用後に破棄し、毎回使用時に新たにダウンロードすることを強くお勧めします。
細菌、ウイルス、原虫をはじめとする寄生虫、これらの媒介生物の標準的な日本語名と対応する学名は、以下のヨシダ製薬様内のサイトで検索できます。学名は「欧名」と表記されています。Excelではなくサイト内辞書を検索する形です。それぞれの生物に関する記事も同一ページ上に掲載されているため、翻訳対象の生物の詳細がよく分からないときにも役立つのではないかと思います。
[注釈25] https://www.yoshida-pharm.co.jp/infection-control/review/microbe_ja/index.html
「欧名」での検索はこちらになります。
[注釈26] https://www.yoshida-pharm.co.jp/infection-control/review/microbe_en/
昆虫に関してもExcelのリストをダウンロードする形式ではなくデータベースを検索する形式です。和名を記入して検索ボタンを押しましょう。
[注釈27] https://insectdb.kyushu-u.ac.jp/dji/exec/index-j.html
菌類のリストは作成中です。完成を待ちましょう。
[注釈28] https://www.mycology-jp.org/~msj7/WL_information_J/Wamei.html
また、
鳥類の学名と標準和名のリスト(単語が3つ連なっているところは属名 種小名 亜種名がこの順で記載されています)は以下から
[注釈29] https://ornithology.jp/iinkai/mokuroku/index.html
哺乳類は以下から
[注釈30] https://www.mammalogy.jp/list/
取得できます。どちらもリストをダウンロードして用いてください。哺乳類のリストは、サイトにある利用規約をよく読んでご利用ください。また、更新されることがあるため、ダウンロードしたリストは使用後に破棄し、毎回使用時に新たにダウンロードすることを強くお勧めします。
まとめ
1つの生物に紐付けられている学名は1つではない場合があることと、いくつかのケースにおいては上に挙げたサイトやサイト中の表を用いて和名から有効な学名を突き止められることを紹介いたしました。皆様の学名の翻訳が少しでも楽になったら嬉しいです。
サン・フレアは専門的な翻訳を得意としている会社ですので、ぜひご相談いただければと思います。
また、翻訳者として当社にご協力いただける方がいらっしゃいましたら、当社サイトよりご応募いただければ幸いです。
ここまで閲読ありがとうございました。
関連ブログ
参照
- https://lab-brains.as-1.co.jp/enjoy-learn/2023/04/46071/
- https://www.museum.kagoshima-u.ac.jp/staff/motomura/2017_05_Nisegoishiutsubo.pdf
- https://repository.si.edu/bitstream/handle/10088/34818/SMC_57_Walcott_1910_3_41-68.pdf?sequence=1&isAllowed=y
- https://repository.si.edu/bitstream/handle/10088/34817/SMC_57_Walcott_1910_2_17-40.pdf?sequence=1&isAllowed=y
- https://www.jstor.org/stable/1303799
- https://www.palass.org/sites/default/files/media/publications/palaeontology/volume_22/vol22_part3_pp631-664.pdf
- https://royalsocietypublishing.org/doi/pdf/10.1098/rstb.1985.0096#pane-pcw-figures
- https://www.cambridge.org/core/journals/journal-of-paleontology/article/abs/evolution-of-anomalocaris-and-its-classification-in-the-arthropod-class-dinocarida-nov-and-order-radiodonta-nov/BBC7E5F260A34413AD31BBDE89207870
- https://www.researchgate.net/publication/223958266_The_oral_cone_of_Anomalocaris_is_not_a_classic_%27%27peytoia%27%27
- https://www.researchgate.net/publication/24213487_The_Burgess_Shale_Anomalocaridid_Hurdia_and_Its_Significance_for_Early_Euarthropod_Evolution/link/0912f5041aaaa92583000000/download
- https://bifidus-fund.jp/keyword/kw054.shtml
- https://www-agr.meijo-u.ac.jp/labs/nn020/research02.html
- https://www.jstage.jst.go.jp/article/mammalianscience/60/2/60_269/_pdf/-char/ja
- https://rnavi.org/3709/
- https://www.calacademy.org/scientists/projects/eschmeyers-catalog-of-fishes
- https://www.calacademy.org/sites/default/files/assets/docs/molidae.pdf
- https://withnews.jp/article/f0180225001qq000000000000000W06910101qq000016570A
- https://www.museum.kagoshima-u.ac.jp/staff/motomura/jaf.html
- http://ylist.info/
- https://insectdb.kyushu-u.ac.jp/dji/index-j.html
- https://kabi.co.jp/question/report-japanese-name/
- https://www.kochi-u.ac.jp/w3museum/Fish_Labo/Member/Endoh/animal_taxonomy/Japanese_name.html
- https://www.city.kishiwada.osaka.jp/uploaded/life/7212_53823_misc.pdf
- https://www.marinespecies.org/aphia.php?p=taxdetails&id=513537
- https://www.yoshida-pharm.co.jp/infection-control/review/microbe_ja/index.html
- https://www.yoshida-pharm.co.jp/infection-control/review/microbe_en/
- https://insectdb.kyushu-u.ac.jp/dji/exec/index-j.html
- https://www.mycology-jp.org/~msj7/WL_information_J/Wamei.html
- https://ornithology.jp/iinkai/mokuroku/index.html
- https://www.mammalogy.jp/list/
この記事を書いた人
宇佐山
特許関連の翻訳の化学部門で、訳文のチェックを担当しています。
獣医師免許を持っていますが、
学位記を見るまで自分は農学士だと信じて疑いませんでした。