2023年に法人設立50周年を迎えた株式会社サン・フレアは、“お客様の成功のために全力を尽くす経営”を企業理念に、企業の知的パートナーとして歩み続けてきました。
創業者として、これまで株式会社サン・フレアを全力で経営してきた笹井社長ですが、そのパワーの源となったのは何か、そして今後サン・フレアが担っていかなければならないものは何かについて語っていただきました。
「翻訳業界は7000億円の市場」という言葉が頭から離れず
――50年間会社を守り、躍進させるために尽力されてきたと思いますが、これまでどのようなモチベーションで経営されてきたのでしょうか?
私は戦争が終わる2~3年前に生まれたのですが、その時代の親というのはとても厳しく、私の両親も例外ではありませんでした。悪いことをするとガツンとやられるなど、厳しく育てられました。学校を休もうとすると、親が私を抱えてでも登校させようとしましたから、小学校から高校まで無欠席で皆勤賞でした。また、小学校5年から大学まで柔道をやっていましたので、武道精神も鍛えられました。
そういう環境で育ち、「まっすぐ生きなければ怒られる」という考え方がありましたから、それが私のモチベーションになっていたと思います。
――翻訳業、ドキュメント事業を始めたきっかけは何でしたか?
私が日本科学技術翻訳協会へ入社したことが、きっかけとして大きく影響しています。当時は国連の力がすごくあった時代だったのですが、日本科学技術翻訳協会は国連で働けるぐらいの語学力と作文能力を養成する機関だったのです。
私が配属されたのは、お客様から依頼された翻訳の仕事を完成させるまでハンドリングすることがメインのところでした。だから「こんな仕事があるんだ」「これは有望な仕事じゃないか」と思っていたのです。
当時、日本科学技術翻訳協会の経営者に「笹井くん、翻訳の仕事ってどのぐらいの市場があると思う?」と聞かれて、私は「わかりません」と答えると、「7000億円なんだよ」と教えていただきました。どういうわけか、その「7000億円」という数字が頭に残っていたんですね。
日本科学技術翻訳協会は、とても良い考え方で事業をおこなっている会社でしたから、生涯働くことになるだろうと思っていました。ところが途中で経営がうまくいかなくなり、辞めざるを得なくなりました。
創業当時、ナポレオンより寝ない日々を経験
――日本科学技術翻訳協会をお辞めになって、サン・フレアの前身となる『国際文化科学技術翻訳研究所』を立ち上げたわけですね。
1971年に『国際文化科学技術翻訳研究所』を先輩と2人で立ち上げたのですが、半年後にその先輩が消息不明になってしまい、私が一人で借金を抱えることになってしまいました。とにかく借金を返さなければいけない、そのためには営業をしなければいけない。ところが私は営業が大嫌いでね(笑)。でも私が営業に行かなければいけない、切羽詰まった状況でした。
そうしたら当時翻訳を担当してくださっていた方が「笹井さんが持ってきたものは全部私が翻訳するから、営業に集中してください」と言ってくださったんです。その方が、私たちの会社のモットーとしてくださったのが、“Quality Translation is our most important product”です。
先ほどお話した「7000億円の市場」というのが、頭にチラッチラッと浮かんだということもありましたから、まずはありとあらゆる業種が掲載されている「会社職員録」を見て、全部の企業に攻めていけばいいんじゃないかと考えました。
そうやって営業をしていくうちに、大手外資コンピュータメーカーのI社のようなところに営業に行けば、仕事がもらえるかもしれないと考えました。幸いI社とお取引をさせていただけることになり、この仕事が面白いと感じるようになっていきました。